剥がれた屋根鉄板

 数年前に私の父は、国道36号線沿いの元水産加工場を譲り受け「北乃博物館」なるものを設立しました。本人曰く「財宝、珍品の数々」を収蔵していると宣っておりますが、その内容は玉石混交の様相を呈しており、資金もないのにどこでどう話を付けてくるのか、収蔵品は確実に増えておりました。その内容といえば、1階は家具調ブラウン管テレビ、カセット・VHSのデッキ、レコードプレーヤー、レーザーディスクのカラオケ、模造刀から上半身だけの虎のはく製など昭和の時代に一世を風靡した前世紀の遺物が集積されております。収集物について、かつて私がうかつにも口を滑らせ「雑品の数々」と言ったところ父は烈火のごとく怒り始め、それ以来このワードは館内においてタブーとなっております。
2階はさすがに玩具専門店だけあって、当時のまま新品未使用未開封のアイテムなど、マニアの好みそうなものが収蔵されております。

 父は風変りな人間で、類は友を呼ぶとのいわれのごとく、館には個性的な「同好の士」(オタク系)がよく集っております。収蔵物の主たる入手先は、先に人生を卒業したこれら同志達が遺していったもので、ご主人が生前、「保存すべき稀少な貴重品」として異常なる熱意を持って収集したコレクションも、主人なき後は、奥様や家族から見れば部屋を占拠する「廃棄すべき謎の雑品」でしかなく、それらを安価または無償で引き取ってくることが次第に明らかになってきました。これは双方にとって益のあることでした。
 このような「博物館」でしたが老朽化で屋根鉄板はかなりの錆びが進んでおりました。特に末端部分は腐食が進み所々欠損している状態で、たまたま通りかかったよその町の板金屋さんが親切にも、早く屋根を直したほうがいいよと忠告してくれることもありました。また、コロナ休業対策の支援金や交付金などでまとまった額(申請手続きはすべて私が行った)が父の口座に振り込まれていましたので、それを原資として母からは早く屋根を張り直せと言われておりましたが、もとより家族に何かを言われ翻意する人間ではなく、何に使ったのかその後も屋根が直されることはありませんでした。

 令和5年11月17日金曜日の夜、折からの低気圧による強風と強い雨で、登別でも屋根の鉄板が剥がれる等の被害が市内20数か所で発生しました。博物館も強風の煽りを受け、ついに屋根鉄板の半分が剥がれ落ちる事態となりました。
 当日19時頃、私は隣町のホテルで会合に出席しておりましたが、屋根鉄板が飛ばされ2階が水浸しだと連絡が入り、急ぎ戻り現場に急行すれば闇夜に回転灯を点灯する消防車と、複数の消防隊員が剥がれた屋根鉄板を切断している作業の真っ盛りで、挨拶もそこそこに館内の2階に上がってみると、雨水がダイレクトに降り注いる状態で、収蔵物をブルーシートで覆い、移動できるものは移動させ、背中には雨が打ちつけ冷え切った手でひたすら床を拭き、いつ終わるとも知れぬ作業に心が折れかけましたが、その中でも少数ではありますが駆けつけてくれた心強い味方もおり、作業を手伝ってくれたおかげで被害も思ったより軽く済み、特に暗闇の強風、強雨の吹きすさぶ中、2階屋根の高所で危険な作業であるにもかかわらず、屋根を養生シートで応急処置をしていただいた浜田板金の皆さまには感謝の言葉もありません。22時頃にはようやく雨も上がり、手伝ってくれた方々にお礼を申し、この日の作業をひとまず終えました。
 翌日は晴天で周りに飛散した屋根シートの破片を拾い集め、何より通行する車両や人に被害が出なかったのは不幸中の幸いであったと思いながら、早くに屋根を直していればこのような騒ぎにはならなかったはずで、じわじわと父への怒りが湧いてきました。月曜日になり、急ぎ登庁し消防本部へ向かい消防長にお詫びとお礼を申しその後の経過を報告しました。

 数日後、何を思ったのか父は私にこう言いました、「お前の謝り方には誠意がこもっていない、お前、消防署に行ってちゃんと謝ってきたのか?」
 様々な思いが私の胸中を去来しましたが私は返答をしませんでした。