長崎の悲劇から75年

 長崎に原爆が投下され今日で75年になります。この悲劇については多くを語る必要はないでしょう。午前11時2分、日本国民の多くが黙とうを捧げます。犠牲となった方々には慰霊、鎮魂の他に言うべき言葉はありません。
この悲劇を生んだ背景にはあまり一般には知られていないことがあります。長崎は第二候補地であったという事実です。では第一候補はどこだったのか。

 福岡県小倉市(現北九州市小倉北区)です。

 アメリカは広島に原爆を投下後、第二弾の投下を陸軍に命じました。マリアナ諸島テニアン基地にてB29爆撃機「ボックスカー」は広島に投下したリトルボーイ型より威力の大きいファットマン型原爆の搭載を終え、8月9日未明に小倉に向け出撃しました。当時の日本にはもはや自国の防空能力もなく、B29は予定どおり9時44分小倉上空に到達、陸軍兵器廠上空を目標地点と定めていましたが、目標が煙に覆われて照準が定まらず、(この煙は7㎞離れた八幡製鉄所の社員がコールタールを燃やし、これが煙幕がわりになり目標視認を妨げたという説が有力)3回ほど上空を反復しましたが、目標を捉えることができず、B29は投下第二候補の長崎に向かったのです。その後の長崎の経緯は現在、多くの国民が知っているとおりです。
 当時の小倉市は兵器工場をはじめ軍需工場が多数あり、人口は約70万人いたと推計されています。さえぎるものが何もない平野部ですから、ここに投下された場合の被害は広島、長崎を遥かに超える想像を絶するものであったことが予測されます。原爆は長崎に投下され小倉は救われました。

 75年経った今、脅威はB29から近隣国のミサイル(中距離核弾道弾)に代わりました。
核廃絶に異を唱える者は少なく、先の大戦で多くの国民と国土に甚大な被害を被った国としては当然であると理解します。ただしデモ行進をしながら「戦争反対」を絶叫し行きつく先は当該国の大使館前であり、国会議事堂ではないということです。

 我が国の近代史の教育には多くの問題があり、上記のような蒙昧な者を輩出しております。反省と自虐の歴史観は領海侵入する国や我が国の領土を実効支配する国にとって最も好都合であることを我々自身が覚醒しなくてはならない時期にきています。
 先の戦争で亡くなった戦士たちを祀る神社の参拝を第三国が非難することは完全な内政干渉です。 
 現実の国際情勢に合わせ正しい史実を学び、自らの領土は他国に頼ることなく自らが防衛する。国防も「戦争」準備行為であるから現行憲法に則りこれを抑制するのであれば、待っているのは日本民族「被虐殺の歴史」でしょう。