チェレンコフの火

 当時小学2年生の頃の記憶です。
 私はクワガタムシが好きな少年でした。夏の日は雑木林、夜になれば駅前の街灯に集まるクワガタムシを探すことを趣味としていました。本当はカブトムシが欲しかったのですが、当時の北海道には生息しておらず、札幌あたりには売っていたのかもしれませんが、子どもの私には札幌などは別世界で、いつもカブトムシは私の中で憧れの虫でした。
 故郷登別はその頃、毎年8月の第三土日に夏祭りが開催され、今思えば通りに多くの夜店が軒を連ねていました。その中に例年カブトムシを売る夜店があり、私は祭りが開催されるずっと前から、ここでカブトムシを買う日を心待ちにしていました。
 いよいよその日になり、土曜日の午前は設営の最中でしたが、カブトムシの出店に向かい、オス200円、メス100円であることを確認し自宅にもどりました。
 午後4時頃、心を躍らせながら小さな掌に200円を握りしめ念願のカブトムシを買いに出かけました。200円はその時の私の全財産でもありました。駆け出したい気持ちを抑えながら意中の店に向かう途中、近くに住むEという一つ年上の少年と出会いました、Eは小太りでいつもカーキ色の半ズボンをはいて長屋に住んでいました。彼は一人っ子で彼の父は国鉄(現JR)保線区に勤めていたのか、いつも濃紺の作業服を着ていたのが記憶に残っています。
 Eは私に声を掛けると、自分もこれからカブトムシを買いにいくところだから一緒に行こうと言い、彼の右手にはやはり200円が握られていました。そして「安全のため」と称して私の200円を預かってやると言い出しました。初め私は断りましたが、執拗に預かってやると言いますので、200円をEに渡しました。私の200円は彼の左手に収まりました。それが運の尽きでした。
 そこから20mも歩かない内に突然私の100円がないと言い出しました、彼の左手には100円しか残されていませんでした。落としたというのです。Eは100円を私に返しました、私は100円返せといいましたが、Eはそれでは俺がカブトムシを買えなくなるからダメだと言い、さらにその辺に落ちているはずだから探せと言い、そのまま立ち去りました。
状況の飲み込めない私は立ち尽くしました。ユルイ私はEの、子ども騙しの詐欺行為にまだ気づかず、道端を這うように100円を探しましたが見つかるはずもありません。

 太陽は大きく西に傾いていました、私は一度帰宅し、父にこの一連の顛末を話し、100円下さいと懇願しました。今も口が良くない父ですが当時は絶頂期で「Eに100円だまし取られたのが分からんのか、取り返しに行ってこい」と叱られ、冷たく突き放されました。
 途方に暮れた私は父の仰せのとおり100円返還を求めEに家に向かいました、丁度E宅は夕飯の最中で、家族3人で卓袱台を囲んでいるところでした。縁側ごしに私はEに100円返してほしいと声を上げました。Eは自分の父に、先ほどから身に覚えのない妙な言いがかりをつけられて困っているのだと言いました、息子の言を盲信する彼の父は国労の闘士でもあり、私を冷たく見据えるその目に、これ以上の談判は危険であることを感じ取り、私は長屋を後にしました。Eの足許には虫かごがあり、雄雌つがいのカブトムシが入っていました。

 200円しか持っていなかったEがなぜ300円の買い物ができたのか、とことんトロイ私もここでようやく父の言葉と目にした現実が一致し、夕暮れの中を重い足取りで失意のうちに帰宅しました。数か月も前から楽しみにしていたことが成就寸前で喪失したこと、200円を渡してしまった後悔、大人たちに叱られ、睨まれたこと、どうすることもできない無念さ等が心の中で複雑に絡まり、普段あまり泣くことのなかった私でしたが、部屋の片隅に寝転がりバスタオルを被りむせび泣きました。不憫に思ったか、その後父は100円をくれ、私はカブトムシを手に入れることができましたが、その年の夏祭りは心から楽しめることはできませんでした。

 この遠い夏の日のことを思い出すと、核の臨界時に発する「チェレンコフの火」のごとく、今も怨讐の青白い火が私の心の中で鈍く明滅します、これは終生消える事はないでしょう。
 Eがその後どうなったかは知る由もありません。

 少額なれども人をだまして金品を奪うことは一生人の怨みを買うことになります。