昭和63(1988)年4月から平成20(2008)年3月まで約20年の長きにわたり私はいわゆるホテルマンとして仕事をしておりました。宴会係、フロント係、集宴会受付、として全国各地、数度の転勤を重ねました。(その間得難い仲間もでき今も歓交を続けています。)
平成20年4月1日付で当時東京勤務の私は登別厚生年金病院庶務課への転勤となりました。転勤先が自分の故郷であったということになります。
20年間慣れ親しんだバンケット部門の主たる目的はお客様に「いかにご機嫌よく酔ってもらい気分よくお支払いいただくか」これに尽きると思います。いわゆる「水商売」から、病院事務の業務内容は全くの畑違い異次元の世界で、別の会社に転職したものとほぼ同様でした。
自他ともに認める「事務能力ゼロ」の私にできる仕事といえば外線電話の取次ぎ、いわゆる電話番しかなく、転勤した側、受けた側も冴えない日々が続きましたが徐々にではありますが出来ることも増え、病院という特異な風土にも適応し、職員の約7割が女性であることも大きなモチベーションとなり、大方の予想では3ヶ月は持つまいと言われていたものが、約6年の勤務となりました。
その間様々なことがありましたが、平成23年に登別市役所の元収入役のY・Kさんが病院の顧問として招聘され、同じ職場で机を並べたことが私の中の歯車が動き出すきっかけになった気がします。Y顧問は現役時代、私の祖父が所有する山野林を市に寄附すると言い出し子供たちはそれに猛反対するといった一族間のいざこざの当時の担当で、登別市の表裏の事情をよく存じており、登別大谷高校のグランドはかつて大きな沼でスラッグを入れて埋め立てた、元市長が先住民族の土饅頭を破壊してその上に自分の家の墓を建立した、カルルスの山奥には物凄い地熱の脈がある、義弟が市議会議員をしているなど話す内容は私にとって興味深い内容のものが多く、年齢は違えどもやがて共に夜の街に繰り出し杯を重ねる間柄となりました。
ある時Y顧問は私に言いました。「若木さん、よかったら今度うちの義弟に会ってみるかい?」
今思えばこれが私の「人生のとき」の時であったと感じています。
「人生のとき」の時