5月、オバマ大統領がアメリカの大統領として初めて広島を訪問しました。歴代の大統領が決して訪れることのなかった被爆地を訪問することは、アメリカ国内の反対も多数あったと推察されますが、大きな決断と勇気に深い敬意を感じずにはいられません。これは日米両国の歴史において大きな転換点になるといえます。
しかし、語られる頻度が、広島に比べて少ないもう一つの被爆地、長崎を忘れてはなりません。長崎市の約24万人のうち約7万4千人が死亡しました、長崎にとって不運だったのは、当初の第一目標であった福岡県小倉市(現:北九州市)が煙等による視界不良で、第二目標の長崎に変更となったことです。当時約58万人の小倉市に投下された場合は、広島以上の史上最大の惨劇となったことでしょう。
どうしても腑に落ちないのは、1945年7月ニューメキシコでの人類初の核実験でその異常なまでの破壊力を十分に知りながら、いきなり8月に非戦闘員の多く住む都市部へ投下したことです。例えば東京湾に投下することを事前に通告し、その威力を日本の政府、軍部に知らしめ、戦争終結の意思なければ、次は都市へ投下する等の警告を与えることはできなかったのか、原爆投下後の両市の惨劇はいまさら言うまでもありません。
また、アメリカの世論の中には、原爆使用が戦争の終結を早めたとの意見がありますが、昭和20年8月当時の日本は、シーレーンが完全に絶たれ、血液とも言える石油は、国内において殆ど枯渇状態にあり、戦争を継続することはもはや困難でした。
アメリカはその事実を把握していたにもかかわらず、8月6日に広島へ原爆投下、間もない9日にさらに長崎へ投下を重ねたことです。都市への投下は無差別大量殺戮に他なりません。100歩譲って、原爆投下が戦争の終結を早めたとしても、矢継ぎ早に2発目を投下する必要があったのか、大きな疑問とやるせない思いが残ります。
その後のGHQによる、占領政策の一つとしてWar Guilt Information Program(戦争についての贖罪感を日本人の心に植え付けるための宣伝計画)に則った戦後教育により、当時の同胞が感じた無差別大量虐殺されたことへの怒り恨みが未だ封印されたまま今日に至っています。
現在、我国と米国はまぎれもない同盟国となっていますが、原爆を投下したB29エノラゲイがワシントンの博物館で展示されています。この機体が投下した原爆で、広島市民9万人以上が犠牲になったことは紛れもない事実で、歴史的に貴重な機体であっても、この場合保存と展示は別として考えるべきであり、被爆国、被爆地の国民感情を考えるならば、一般に常用展示されていることに関して、アメリカの真意を聴くとともに、同盟国として遺憾の念を表すべき必要があるのではないでしょうか。
戦後71年を迎えて8月の夜に。